2011年6月アーカイブ

稲垣 嗣夫 さん (大理39)

新聞編集のコンピュータ化を推進

昭和39年、理学部経営理学科を卒業、即、神戸新聞社に入社。以来47年の長きに渡り勤めあげた。その間、コンピューターの専門家として、社の経営管理システムを構築、新聞の制作の近代化にも参画した。昭和57年、総合企画部門に転籍、中長期経営計画を策定、安定した経営の道標を作り上げた。

昭和63年取締役、常務取締役を経て、平成7年専務取締役、平成14年代表取締役社長に就任(神戸新聞12代目)、平成19年代表取締役会長、現在は神戸新聞社相談役、神戸新聞グループ経営会議名誉顧問を勤めている。

全国数多(あまた)有る新聞社の社長で理科系出身者というのは、極めて珍しい。経常の根幹においた方針は「情理を尽くす」。情だけでは流され、理だけでは固苦しい、両方を上手に使い分けてこそ、人は動き組織は活性化する。

阪神・淡路大震災という大きな試練を乗り越え、社業は復活した。関連企業25社を有する神戸新聞グループは、情報を中心においた社会貢献企業に脱皮しようとしている。三宮駅前に「ミント神戸」も建設した。

未知なる時空に向けて旅を続ける『人生』は、夢と希望を「坂の上の雲」になぞらえて歩み続けねばならない。

兵庫県サッカー協会・会長、兵庫県行財政改革諮問委員、甲南大学理事ほか多数兼任。

趣味は、囲碁、ゴルフ、スポーツ観戦、旅行など。69歳。

ヒロ 松下(松下 弘幸) さん (大営58)

誰でもわかるレース講座
─ 平成4年6月18日の東京甲南会女子部会講演から ─

【プロフィール】
日本初のCARTインディカー・ドライバー。「CART」(現Indycar)はヨーロッパの「F1」と並ぶ世界2大レースシリーズ。1986年に本格的なプロのレースカードライバーを目指して渡米。フォーミュラ・フォード等の下位クラスで力をつけた後、89年の「トヨタ・アトランティック・シリーズ」のチャンピオンに。これは日本人初の海外メジャーシリーズでの快挙で、その実績で翌90年から「CART」ドライバー入りし、当時の日本人最高の6位の記録を持っていた。98年にCARTシリーズを引退するまで、アメリカを中心に北米、南米、オーストラリア、日本で年間20戦近くのレースに出場していた。
インディカーからの引退後も、面白いと思えるレースには出場する考えで、99年にはルマン24時間耐久レース、その後もオフロードレースに出場したり、レース中継の解説者としての活躍も。また、CARTドライバー時代から始めた自動車及び航空宇宙関係のエンジニアリング会社や不動産投資会社、広告・マーケテイング会社も経営している。
(S58年営卒/ロスアンゼルス甲南会会員)

欧米のレースというと、フォーミュラ・ワン(F1)が一番有名で、日本の野球のように幼稚園の子どもから、かなりの高齢者までサーキットに来て家族三代で楽しまれます。ところが日本では、三重県の鈴鹿サーキットなどでもほとんどが10代から30代。40代になると女性の方は特に少ないですね。

今回、女性部会で講演をとの依頬を受け、正直なところ少し困ったのですが、皆さん20~30代の方がほとんどなので(笑)ホッとしました。

・レースチームのオファーを断って松下電器入社

幼稚園から大学までずっと甲南で育ちました。14〜15歳頃からオートバイのレーサー達の姿に魅せられ、2輪のモトクロスやロ-ドレースに出場。4輪のレースを始めたのは18歳になってから。社会人の方たちとのレースを続けていたのですが、幸いそこそこ成績が良くて(全日本ラリー選手権3位など)レースチームからいくつかオファーがありました。

4年になった時、ふと待てよ、と。大学を卒業してプロスポーツの世界にすぐに入る、そういう〞井の中の蛙〞になるのがいやだと思い、幸い祖父が松下電器の創業者でもあり、日本を代表する企業でもあったので、レースチームのオファーを断わって、石の上にも3年と言われるように、松下電器で3年間頑張ってみようと決めました。

就職して3年近く経った85年12月、鈴鹿での練習中にかなり大きな事故を起こし、幸い体は無事でしたが車は大破。どうしようかと考えた時、2輪の頃から海外のレースで活躍したいと思っていましたし、車は潰れたけれど体は無事だし、これはきっと神様からの「お前、そろそろ決めたら」というきっかけかなと考え、翌日、会社を辞める決心をしました。周りは私が会社を辞めるなど誰も考えなかったようですが、当時、松下電器の会長だった父にはとりあえず5年ぐらいと言って、86年7月、できる限りの資金を集めてアメリカに行きました。

なぜF1で知られるヨーロッパではなくアメリカなのか。アメリカには、もともと私がしていた2輪のプロのレーサーでかなり強い人が多かったのですが、鈴鹿でその中の一人の走りを観ていて、それほど常識にとらわれているとは思わない私でさえ驚くような、すごく常識で考えられないような、かなり専門的になるので表現は難しいのですが、例えば、鶴亀算でする計算を、いきなり代数で解かれたような驚きを感じた。それがきっかけでアメリカ行きを決心したのです。

・平均スピードが一番高いのがオーパルコース

渡米後、初めて行ったサーキットは、 今はなくなりましたが伝統あるカリフォルニアのリバーサイド。そのサーキットは、当時私が乗っていたわりあい小型の車でも200キロくらいで回る最終コーナーの外側が、ずいぶん厚いコンクリー卜の壁で、最初見た時、「嘘!こんな所でレースしたら危ないやん」と思ったほどです。
CARTが行なわれるコースは、アメリカのインディアナポリスモータースピードウェイなどの楕円形の「オーバルコース」と、日本の鈴鹿サーキットのような「ロードコース」、カナダのバンクーバーなどの市街地に特設された「ストリートコース」の3つがあります。

平均スピードが一番高いのがオーバルコースで、我々が乗った車だと直線で400キロ近いスピードが出ます。370~380キロと非常に速いスピードで壁ギリギリを走らなければいけないコーナーもあります。当たる時は、まず少なくとも300キロ以上で分厚いコンクリートの壁に当たるのですから、「恐くないですか」とよく言われました。正直言って凄く恐い、皆さんが想像されるより、もっと恐いですね。

一番恐いのは、自分のミスで車をぶつける時ではなく、不可抗力の事故です。私も何度かありますが、ブレーキが効かなくなるとか、前を走っている車のエンジンが壊れ、コースにぶちまかれたそのエンジンオイルに乗ってしまうと、もう何も効かなくなります。

そういった事故の後はかなり恐怖心がありますが、不可抗力を怖がっていたら走れません。速く走るためだけの性能を追求して、部品も限界まで軽くしていますから、非常に高価な車ですが、レースに使っている限りいつ壊れるかは分かりません。

怖がってはいけないけれど、そのスピードで走っている限り、運が悪かったら死んでしまうという恐さは常にありました。私自身も、今まで3度位死んでもおかしくないスピードで当たり大怪我をしたこともありますが、幸いにも私は五体満足で普通に歩けます。昔を振り返ると、レースが終わった日曜日にレース場を出る時、いつも「今日も自分の足で車を運転して帰れる」と思ってホッとしたのを憶えています。

・89年、全米チャンピオンに。
そして日本人初のインディカー参戦

レースに出て最初の頃は、あと壁まで30センチしかない、20センチしかないと思ってコーナーを走っていたのですが、数戦闘ってから、ふと「あと30センチもある、20センチはある、余裕があるんだ」と考えたら良いと気付いた時に、自分自身のひとつの壁が取れたんですね。

そう気付いてレースに出た89年、「卜∃夕・アトランティックシリーズ」でチャンピオンに。そして翌90年、日本人で初めてインディカードライバーとしてCARTに参戦する事ができました。当時、カナダ、アメリカ、オーストラリア、日本の栃木県のもてぎとか、年間20戦近く転戦しました。

アメリカでのレースにいくつか出て感じたのは、日本人は仕事でもスポーツでも恋愛でも、無意識にマニュアルに縛られるところがあって、日本のレースカードライバーは、少しでも美しく走るというふうに走ってきました。でも欧米では、無理矢理車と喧嘩してでも、車をねじ伏せてでも速く走るということを強く感じました。レースというのは、人よりも100分の1でも速くチエツカーフラッグ受けたら勝ちな訳ですから。

また日本と欧米のスポーツ選手の一番大きな違いは、例外もありますが、例えばアメリカのバスケットボールのマイケル・ジョーダン選手。彼は試合後のインタビューは必ずスーツ姿。日本では、スポーツ選手だからこんな格好でもいいだろうという気持ちの方がけっこう多いのがちょっと残念だと思います。

レースを直接観られた方は少ないと思いますが、テレビで観るのとは違って「あっ、こんなに面白かったのか」と、やみつきになられる方が多いですね。日本にも鈴鹿とか栃木県のもてぎ、富士スピードウェイなどのサーキットがあります。

野球ですと、普通は視覚と聴覚、この2つだと思いますが、自動車レースは、視覚と聴覚、そして臭覚。オイルの焼ける臭いとか、タイヤの摩擦の臭いなどのいろんな臭いです。また、走っている響き、振動が体感できますから、是非実際に観に行っていただきたいですね。

レースの世界でも同じですが、日本のスポーツ選手が国際的なスポーツの世界へ出て行くのにはまだ少し時間がかかるような気がします。でも最近の新人類と言われるような人たちは、逆に全然違った発想をしますから、臆することなく国際的に出ていって活躍してほしいと思います。

 

matsushita1.jpg◆質問タイム

故障が起こるのは、チームの整備に何か問題が。

もちろんレースカーの整備を行うメカニックたちは超一流の技量をもった人たちですが、レースカーは極限まで部品の性能を追求して作られているので、エンジンやギアボックス関係の故障や、電気関係の故障が起きる可能性があります。トップクラスのドライバーがエンジントラブルを起こす時は、そういった極限まで軽量化された部品によるトラブルが多いですね。

1チームの人数と、費用を

私が出ていた当時のインディカーで、だいたい1チームにドライバーが2人、車が5~6台。ドライバー1人に車2台ずつです。人数は、メカニックとか広報とかの事務関係、合わせて40~50人くらいです。

年間にかかる費用は、インディカーの場合、車2台、ドライバー2人で日本円で20億~30億くらいの金額で済みます。F1ですと、かなり改造範囲も大きく、使える部品の材質の許容度も広いので、おそらく今一番お金を使っているフェラーリや、その次のトヨタで、だいたいF1に従事している人が6~700人。メーカーですし私の知りうる限りですが、ドライバー2人を走らせるための経費はおそらく年間250億程でしょう。

車単体の値段は算出しにくいですが、インディカーでだいたい7~8000万、F1になると全体の費用が大きいですから、少しケタが違ってくると思います。欧米ではそういったスポーツのステータスが高いから、それだけサポー卜してくれるスポンサーがある訳です。

特別なトレーニングは。

我々の職業は、筋力があれば速いかと言えば、それは少し疑問です。速さに直接結びつかないかもしれませんが、レースカーの場合、速くてエンジンパワーの大きい車であればあるほどタイヤが太くてハンドルが重く、コーナーからコーナーが速くて休む間がないので、体力、筋力、耐久力もいります。レース後半になると、筋力とか持久力とかが必要になってきます。

レースカーに乗った瞬間くらいから終わるまで、脈拍が高い人だと190~200近く、私は170前後と、心臓への負担が大きいので、心肺機能を高めるトレーニングも必要です。私はレースドライバーの中ではわりとがっしりしている方と思いますが、事故した時に骨折とかを防いでくれますから、ある程度の筋肉は自分自身を守るためにも、仕事上でも必要です。

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「正直言ってすごく恐い。でも恐いからこそ、このスピードなら曲がれると考えてコーナーに入っていくのです」と松下氏。176センチのスリムでダンディな外見からはうかがいしれないスピードヘかける熱い思いを感じ、また時宜折々の冷静な決断力に、事業を大きく育てるという夢の実現も近いと実感した。

「世界中から集まった最高のテクニックを持った連中と一緒にレースをやってこれた事、そして、そのトップクラスのレースで9年間も走れたのがとても素晴らしく、幸せな事でした」とも。

關 基久 さん (大営55)

大阪からジャズの息吹を

ライブ経営 新人発掘も

大阪・東梅田から、ジャズの熱い息吹を・・・。全国でも珍しい毎日ジャズのライブがある「ロイヤルホース」のオーナー。開店から35年余、重厚な店内は当時のまま。世界的に有名な外国人アーティストは勿論、国内外を問わず、人気実力を伴うアーティストが連日連夜出演する大阪を代表する老舗として、老若男女を問わず幅広いファン層に支持されている。

阿川泰子、マリーン、小野リサらの関西でのデビューのステージにもなった。日本でブームの綾戸智絵も関西時代は、毎週出演していた。最近は、音楽は国境を越え、ジャンルに分けるべきではないとの趣旨から、ジャズ、ラテン、ブルース、ロックは勿論、幅広く生音の文化を表現。

94年には、「REOMA NOW SOUND JAZZ FESTIVAL」のプロデューサーとして抜擢以来、その繊細で奇抜な企画力を認められプロデュース業にも、その手腕を発揮。

甲南中学時代からの旧友である能楽大倉小鼓方十六世宗家大鼓方宗家預りの大倉源次郎の、能楽DVD「大和秦曲抄」、「大和秦曲抄Ⅱ、五体風姿」の制作監修も務める。
なお、「大和秦曲抄」の推薦文はニューヨーク在住、現代美術の写真表現において第一線で活躍する杉本博司が、第2作の「大和秦曲抄Ⅱ、五体風姿」の解説文は、ベストセラー作家であり哲学者の内田樹が担当、また両作品とも、これまた、甲南中学時代からの旧友であり、俳誌「ホトトギス」編集長。平成12年財団法人虚子記念文学館理事。平成13年社団法人日本伝統俳句協会常務理事の稲畑廣太郎が各演目ことに一句浮かべている。
アマチュア、新人の発掘にも精力的で、甲南大学のビッグバンドは勿論、関西の大学のビッグバンドの出演場所としても提供している他、各レコード会社のプロデューサーと親交が深く、日本狭しと全国のオーディションの審査員としても活躍。

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